昭和五十六年一月二十四日 朝の御理解


御理解第八十八節
 昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは顔をきれいにする許ではない心に辛い悲しいと思う時鏡を立てて悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよと云う事である。


 鏡を見ると云うのは、自分の顔をきれいにする許ではないと云われますように信心によって教えの鏡を頂くわけです。その教えの鏡はおかげを頂く事ばかりではないというふうに頂かなければならんと思うですね。辛い、苦しい時が例えばあっても、それを人にも見せないように、まあにこやかにして家を治めていけというふうにここには教えておられます。その事をどんなに辛い苦しい時でも自分の心を教えの鏡に写させて頂くとそこにはお詫びをする以外にはない、そこにはお礼を申し上げる以外にはない。そこからいうなら悪い顔をするどころかむしろ神様にお礼を云う心が生まれてくる。そこから自ずと治まってくる。いわゆる黙って治める事も出ける。有難く治める事が出ける。その黙って治める事のまあすばらしさと云うか神様のいうならばおかげで治まる事のそれこそ尊しやであります。そういう生活にならせて頂く時にいよいよお徳の生長、いよいよお徳は豊かに大きくなってまいります。
 はじめて八十八節の土台が出来るのです。親の代より子の代、子の代より孫の代、いよいよ広がりに広がっていく基礎土台を作らせて頂く、それがお徳というものであり、それが信心であり、それを昨日のお目次祭の後のお説教にも申しましたように合楽ではそのお徳をいよいよ頂いて八十八節、広がりに広がっていくおかげを頂く事の手立てだけを教えておる昨日竹内先生が昨日の御理解をまとめを(あそこをちょっと読んでみてくれない。昨日の正教さん、ここへ持ってきてちょっと、みんな読んで)
 「天地無盡藏のおかげの受けられるお徳の道は一直線。それを途中でやれやれと気をゆるめたり姿勢をくずすから又後へ戻ってしまう。いつまでも堂々めぐりに終わってしまう。人間氏子幸せにしてやりたいと絶えずお徳を与えよう育てようと働いて下さっている神様。日常茶飯事、時々刻々おこってくる成り行きこそその働きであるから自分の都合の良い事、悪い事一切の成り行きを大切に尊んでいく合楽理念が誕生してはじめて御徳を育てていく絶対の助かりの道が明らかとなった。そうと分かったからには、日常茶飯事が一本勝負。一足も無駄にさせずに働いておって下さる神様であるから、一歩でも後へは引かんで一切を有難しで受けぬくぞ、その心構えがいる。辛抱しぬかねばならぬ所は辛抱し通す。「ままよ」の心がいる。そこから神様の間違いない働きが無盡藏に生まれ神様への不動の心は鍛えあげられていく。」今お聞きの通りですし、今塗板に掲示してありますとおりでありますけれども、兎に角合楽では、そういう神様の願いが合楽にかけられるというのは、あの今のような昨日、今日のような御理解を頂くそのシンを頂いていく事です。しかもそれはその事一直線でなからなければならんと説いておりますよね。
  どうぞ、おかげを頂きますように。